第一話 フォルティシモ誕生
何万種類もの緑が生い茂るある深い森の奥に、赤いレンガ造りの小さな、けれどとても愛らしい家があった。煙突からは細い煙が絶え間なくたなびき、それは夏でも寒いこの森のこの家の古い暖炉が、いつも優しく彼女をあたためていることを物語っていた。
彼女? そう、彼女はもう幾歳になるだろう。気の遠くなるような歳を重ねているはずだ。
カメリアオイルを染み込ませ、毎日丁寧なブラッシングを欠かさない彼女の銀色の髪は陽の光に輝いて、歴史が刻んできた彼女の皺をとても魅力的なものにしていた。老いても衰えない彼女の黒い瞳は常に前を向き、森に棲む多くの住人たち(それは幸か不幸か人間ではなく、鹿や狸や狐や、リスたちなのだが)、彼らへの優しいまなざしが消えることはなかった。
彼女の名前はリーリア。身寄りもなく、一人この森に住まうことになったのはいつのことだったか。彼女はとんととぼけているが、そんなことはどうでもいいことだ。
彼女は一人だったが、彼女は孤独ではなかった。先にも述べた通り彼女の周りにはいつも彼女を慕う多くの仲間たちがいたし、そして何より彼女の心には多くの住人がいた。彼女の記憶力は神様ゆずりのもので、もちろん今世の記憶から、遠い遠い過去世の記憶まで、それはこと細かに彼女の神聖な脳細胞に刻み込まれていた。
もっとも過去世と言っても彼女が生まれ変わったことは一度もなく、彼女はその途轍もなく長い夢のような人生のすべての刻印をつぶさに覚えていて、よくその記憶の扉を開いては多くのものたちと語らった。
それは時にはラスコーの画家だったり、時には美顔でインテリのインドの聖職者だった。インカの呪術師だった風変りな老人ヤワルと交わした複雑な呪文も難なく覚えていたし、ギリシャのテルマエで胸まわり2メートルはあろうかという婦人とのぼせるまで話し込んだその内容も、すべて記憶していた。
とにかく彼女は何でも覚えていて、何でも知っていた。そしてその知識を勇気と知恵に変える心を持っていたんだ。
そうだ、私のことも少しだけ話しておこう。私はゼピュロス。ギリシャ神話に登場する風の神だ。君はアフロディーテを知っているかい? 愛と美の女神なのだけれど、私が女神の誕生につき添ったのは有名な話だ。私にしたってアフロディーテにしたって、その誕生秘話をリーリアは全部知っているよ。
そう、彼女は大地の女神ガイアが生まれるずっと前から続く、神統第一統の魂の系譜を受け継ぐゴーディファイ(Godyffai)の一族だ。だからもちろんギリシャのアポロンやアテネの神殿で繰り広げられた神話なんて、昨日のことのようによく覚えている。彼女にしてみれば、私なんてまだまだひよっ子だよ。
えっ? ゴーディファイについて聞きたいって?
そりゃあそうだろう。何てったってゴーディファイはすべての魂の源泉だからね。でも、それはリーリアに語ってもらおう。私と彼女の仲だ。私の甘い風ひと吹きで彼女は機嫌よく話してくれるよ。ゴーディファイとは深遠なものさ。まぁ、楽しんで聞きたまえ。
ゼピュロスがリーリアの小さな館を覗くと、リーリアはちょうど夕食の支度をしていた。空色のニットにリンネルのエプロンをつけた彼女の姿は、リーリアを少女のようにキュートに見せた。愛らしい人だ。
ゼピュロスは西側の小窓からそっと館に入ると、
「やぁ、リーリア! 元気かい?」とちょっと驚かすような仕草を見せた。
「まぁ、ゼピュロス! いらっしゃい。ちょうどこれからお夕食なの。今夜はクリームシチューよ。たっぷり作ったからたくさん食べていってちょうだいな」
リーリアはそう言うととても嬉しそうに顔を上気させ、サンタルチアを鼻歌で歌いながらクリームシチューを三人分よそった。先客がいたからだ。その夜の客人は飛翔を、それも天までの飛翔を許された孔雀の老王マキシムだ。彼はリーリアの旧知の友で、幾度生まれ変わってもリーリアに会いに来るほどリーリアを崇拝していた。彼は年老いてほんの少しその大きな羽に色彩を欠いていたものの、とても悠々とゼピュロスと挨拶を交わした。
三人とも気心の知れた間柄だ。遠慮のない朗らかな夕餉がはじまった。昔話やうわさ話、ゼピュロスの恋の相談から、はじめて天へ飛翔した折のマキシムの土産話まで、三人は笑い、驚き、興奮し、時にはほんの少し涙して、リーリアの煙突は幸せの煙を上げたのだった。
シチュープレートを下げてオーブンからサクサクトロトロのアップルパイを取り出し、チョコとバニラのアイスクリームをたっぷり添えたデザートプレートと熱い紅茶を配りながら、リーリアは言った。
「ゼピュロス、何か聞きたいことでもあったんじゃない?」
彼女は彼に小さなウィンクをあげると、銀色の髪を撫でつけほっと息を吐いた。
「やぁやぁ、そうだったよ。笑いすぎて忘れるところだった。リーリア、今夜はゴーディファイの話を聞かせてほしいんだ。トラチとの戦いのくだりなんて何度聞いても心が躍る」
「まぁ、ゴーディファイの話? もちろん! きっと夜が明けるわよ。暖炉に薪をくべておきましょうね」
そんな風にして、その夜のゴーディファイ懐古譚ははじまった。リーリアの話はリアルそのものだった。なぜならリーリアこそ、リアルの語源になった人だったから・・・。
「さて、何から話しましょうか」
リーリアは少し火照った顔を手のひらで軽く押さえて目を閉じた。
さぁ、ゴーディファイの幕が上がる!
「そう、時はゼピュロス、あなたが生まれたギリシャ神話の時代よりもずっとずっと昔。熱い熱い宇宙のマグマがようやく冷え、やっと美しい世界が少しずつ姿を現しはじめた頃の話よ。
神統創生紀、それは神の威光がもっとも美しく現れた優しい世界だった。そこに私たちと何ら変わりない人たちが暮らしていたのだから、不思議なものね。
ただ違うのは、すべての人々の心は無条件に神のものだったということ。神と人々との距離がとても近かったし、神の意志がきちんと具現化していて、人々の中心には神が当たり前のように存在した。神のおられる所が中心なのだから、つまり人々は宇宙の中心に存在したのよ。
今は宇宙の中心を見つけることすらできないでしょう? 神は万物に宿り、どこにでも存在されるのだけれど、やはり・・・」
「中心が無ければ秩序を見つけられない」と、マキシムが後を繋いだ。
「ゴーディファイは神が人々に与えられた最初の星でね、はじめは名前もなかったのよ。この私達の星よりもずっと小さな星。だけど美しい星だったわ。高く蒼い山並み、幾つもの大河、四季に咲く花や鳥たち・・・。けれど荒涼な土地もたくさんあって、そんな手つかずの星をゴーディファイの人々は一から育てていったの。もっとも彼らには星の概念すらなかったでしょうけれど、今の世と驚くほどよく似た世界だったわ。よく今の世を嘆く人がいるけれど、私は案外この世はゴーディファイの再来じゃないかと思うこともあるほどなの」
リーリアはそう言うと、紅茶のお代わりはいる? と二人に訊いた。
「ゴーディファイは神が下された神統第一統の王国で、八角薔薇十字を紋章とすることを許された。これがダイヤモンドと金とエメラルドで作られたゴーディファイの紋章ディアギルグよ」
そう言うとリーリアはたいそう美しい八角形のロケットペンダントをはずし、開いて見せた。中にはダイヤモンドを土台に、光輝く金の十字架、そしてそこにエメラルドの薔薇が二輪クロスしていた。
「一輪は棘のない薔薇、もう一輪は三つの棘を持つ薔薇。ゴーディファイの人々は棘を神から与えられた試練だとして、とても謙虚に思慮深く暮らしたわ。棘は戒めだという人もいたしね」
ペンダントをじっと見ていたゼピュロスはふと気づいてこう言った。
「この砂は?」
ペンダントの紋章の反対側にはサラサラとした砂時計の砂のような白く光る粒が見えた。
「・・・ゴーディファイ初代の王のご遺骨よ。私が命に代えても守らなければならない魂の遺伝子なの」そう言うと、リーリアはペンダントを閉じてふたたび胸にかけた。ペンダントはキラキラと光った。
神統創生紀において、ゴーディファイの存在した星は神が直轄する唯一の星だった。その後幾つもの星団が生まれ、ギリシャ神話が語られるよりもはるか以前、そしてエデンの園の物語が地上に伝わるよりも遥か昔、あの美しき二人が祝福を賜ったのと同じように、ゴーディファイの人々は神から下されたこの小さな星の豊かな楽園を、自らの故郷として深く愛した。
言うまでもなく神は天上に多くの天使たちと共に住まわれたが、天上とこの楽園とは光のはしごムルドゴラで結ばれ、その絆はとても深いものだったという。
リーリアは静かに語りはじめた。
――ここは神統紀元8億年のゴーディファイ王国。その首都である聖都イェルニが見渡せるグースの丘に立てば、都を東西南北に分ける四本の美しい大通りが見える。東の道はヴィー、西の道はサン、南の道はキュー、そして北の道はウェルと呼ばれ、人々はこれらの大通りを愛した。あちこちの山や森から切り出された様々な種類の木々が植栽された道には、隅々までブラックダイヤモンドが敷き詰められ、それは言うまでもなくゴーディファイ王国の強さと豊かさを示していた。
強く豊かな国には穏やかな人々が暮らす。当然の道理だ。人々は常ににこやかで礼儀正しく、勤勉で謙虚だった。争う必要がなかったので尊大でいる理由がなかったのだ。人々は皆花や草木を愛したが、それは花たちがゴーディファイの人々同様自由にテレパシーを使えるから、ということを言う人たちもいた。動物はもちろんのこと、果物も野菜も、まるで神のみ使いのように朗らかに笑い、歌った。
ファンタジーであり現実だった。美しい現実。夢のようでいて夢ではなく、魂の実感だった。
なぜここまでこの王国が栄えたか。それこそが、ゴーディファイを守る四つの風だった。
東を吹く風は「思考の風」と呼ばれ、常に人々の頭脳を清めると共に、強靭な思考力を育てた。よく働きよく学ぶゴーディファイの人々にとって、この風は間違いなく彼らの追い風となり、彼らの尊い思想や叡智を思う存分様々な分野に活かすことができた。医学、スポーツ、芸術、心理の探求から星々の観察まで、あげるときりはない。人々は大人から子供まで、その年齢をはるかに上まわる教養人だった。
南を渡る風は「感情の風」。あたたかな心を呼び、同時に理性も育む風だった。時折王国を訪れる天使によって風が荒れることはあったが、そんな時人々は涼しい顔で天使たちを盛大にもてなした。あのルシフェルでさえ、神にたしなめられた時には王国を訪れ、彼らに意見を求めるのだった。
そう、ゴーディファイは大天使さえ認めるほどに高く清らなる魂が集まり、大いなる神のみ力と共に、その精錬された魂でこそ光輝く王国であったのだ。
西をよぎる風は「安息の風」。人々は皆この風が大好きで、少しバニラのように甘い匂いのするこの風がさざ波のように吹き渡ると、人々は皆安心して家路についた。
この風が体を癒すのはもちろんのこと、感情の風と同じく簡単に人々の心の中を吹き抜けては、彼らの心に心ゆくまでの安息をもたらした。
そして北をゆく風は、そう、「忘却の風」だ。人も鳥も花も、忘却なくして正しく生きることはできない。忘れるからこそ生きられる。この風がゴーディファイの人々をどれほど強く守ってきたか、それは王国の誰もが知っていた。北風の厳しさはあれど、その心が魂を守ることを疑う者はいなかった。
忘却の風は四つの風の中でも特に神力の強いものとされ、人々は敬意を込めてレアと呼んだ。
四つの風は常に王国のどこか、その風が必要な場所で吹き人々に勇気を与えたが、風のすべてが破壊とは無縁で、それぞれの風が互いに制しあい、全体で調和と均衡を保つ様はまさに神風だった。
ゴーディファイ王国が風の国と言われた訳がおわかりいただけたであろう。
「ご誕生! ご誕生です、王様! 王子がご誕生あそばされました。皇太子殿下であらせられますよ、王様!」
第17代ゴーディファイ(Godyffai)王家皇太子フォーヴ(Forve)の誕生だった。
ゴーディファイの一つ目の f にforgive の意味を与えられ、フォーヴ・ゴーディファイは生まれながらにして “ 許し ” を命題として誕生した稀代の王子だった。それはそれは美しい王子だった。
ちょうどその同じ時刻、北の大通りウェルと東のヴィーの交わるウェルヴィーの大邸宅で、一人の女児が誕生した。ファーラ・ヅィー(Fara Zyee)その人である。
ヅィー家は王家に次ぐ名門中の名門貴族で、代々北東の鬼門を抑えるという重責を担っていた。鬼門とは北東を意味し、それは宇宙の創生、神代の時代から変わらない。時空が存在する限り時空の澱である鬼門も存在し、それを抑える強大な力が必要で、またそれは汚れ役だった。だからこそもっとも高潔で誉れ高いヅィー家が選ばれたし、人々もこの名門貴族を愛し、ゴーディファイの至宝と呼んだ。
女児誕生は即王家に伝えられ、王はたいそう喜び、ゴーディファイの二つ目のfを彼女に授けた。そしてヅィー家の当主シズマはそのfに faraway “ 遥か ” という意味を与えたのだった。
さて、ここでひとつ語らねばならぬことがある。
ゴーディファイ王国ではアルディナファ(Aldinapha)という美しい文字が使われた。それはヒエログリフともアルファベットともデーヴァナーガリーとも違う、とても躍動感があり清廉な文字で、あらゆる文字の親文字である。
このアルディナファ文字で書かれた言葉に神力が宿ると、金色に光輝いてエネルギーを放つ。ゴーディファイの人々は誰もがこの輝かしい文字を誇りに思い、大切にした。
アルディナファで記されたすべてが聖なる書となり、人々は手紙一通ですら粗末には扱わなかった。その聖なる文字は言うなれば神の意思だったからだ。けれど今となってはアルディナファ文字を識る者はリーリアしかいない。だからこの物語では私の一存で、特に意味のある言葉にはアルファベットを添えることとした。
フォーヴとファーラはすくすくと成長した。誰もが二人を愛し、教え導いた。
二人は朝から思考の風と共に勉強し、お昼寝の時間は安息の風を待ち、感情の風と共に遊んだ。
そしてこれは王国の誰もに当てはまることだったが、風は二人の精神をなす二つの神経を特に大切に育んだ。活発な活動と共に優位になる神経は思考の風が、穏やかなくつろぎと共に優位になる神経は安息の風が育み、感情の風は積極性、協調性、朗らかさ、思いやりなど、あらゆる正の感情を伸ばしては負の感情を封じた。
レア、忘却の風はというと、夜二人が寝静まった頃に二人のすべてを吹き抜け、魂、そして心と体の一日の澱を綺麗に消却しては細胞を新たにし、次の日の鋭気をみなぎらせた。
四つの風は二人を深く慈しみ、健やかに育んだ。二人は生まれた時からいつも一緒で、人々は二人のことを敬意を込めて ff “ フォルティシモ ” と呼んだ。
―― 文・構成:安東瑠璃
