第三話 運命のいたずら
ある朱い夕焼け空の下、フォーヴは秘密の園と呼ばれる王宮の第8庭園でファーラに口づけた。はじめての口づけだった。
「ファーラ、愛している」
「フォーヴ、私もよ。あなたを愛してるわ」
二人がかたく抱き合うと、フォーヴの何か香ばしいような陽の香りがファーラを安心させ、ファーラの柔らかな胸のふくらみがフォーヴの鼓動を否応なく高まらせた。
二人の唇がふれる度、光のはしごムルドゴラが立ち降ろされ、天は開かれ、まるで神や天使たちの祝福の歌声であるかの如き鳥のさえずりが聞こえてくる。
二人は幸せだった。最高に幸せだった。
けれど、フォーヴは苦しかった。
どうしてこんなにも、ファーラとの絆を儚く感じるのだろう。
「ファーラ、僕は君を失いたくない」
フォーヴの想いは切実なものだったが、それはけしてファーラには伝わらなかった。
イズーの森の一件以来、フォーヴはいつの間にか心に影を宿すようになっていた。ファーラの清らかな左手の薬指に、ずっと消えない痣ができたことをフォーヴは知っていたのだ。それはけして醜い痣ではなかったけれど、ファーラを生まれたての真珠のように大切に想ってきたフォーヴにとって、それは耐えがたいものだったのだ。
刻々と彩を変える夕焼け空を見ながら、二人は何度も口づけを交わした。その時の記憶は、たとえレアが嵐のように吹きつけようとも生涯消えるものではなかった。
その年の夏至、フォーヴはゴーディファイ王国の古城サーノートディプリ城で元服式を迎えた。
サーノートディプリ城は王国の東に位置するノートディプリ山脈にあるマスラカンの尾根に根を下ろした山城で、古の王族が住まいとした宮殿である。
聖イェルニに四つの大通りが造られ、その中央にガディア宮が造営されて以来、王家はノートディプリを離れて新たな都に移ったが、代々戴冠式や元服式などの祝典はサーノートディプリ城で行われるのが習わしだった。
ガディア宮が洗練された趣きなのに比べ、サーノートディプリ宮はとても民族的だった。
ゴーディファイの民族性とはひと言で言うと、奉仕性だった。宮殿には神や王家に奉仕する人々が多く暮らしたが、彼らはとても質の高い技の数々を持ち合わせていた。国宝級の腕を持つ様々な分野の職人たちが宮殿に居を構え、王族と共に暮らし、奉仕の精神で神の王国としてのゴーディファイを強固なものに創り上げていった。
だからこそゴーディファイの人々の心には、自分たちで築き上げた王国という自負があり、それゆえ愛国心と忠誠心が強かった。
そんな人々の厚い信仰心と、神の国としての王国建設への熱い情熱があったからこそ、神は王国に四つの風を下されたのだ。そうしてゴーディファイ王国は万乗なものとなったのである。
神とゴーディファイの人々の絆は、神と天使たちとの絆と同等だと言ってもよいほどだった。あのプライドの高い天使たちもそれを認めていたし、ゴーディファイの人々もそれをこの上ない誇りとしていた。
ちなみに大工や石工などの職人たちは苦役とは一切無縁だったが、それは彼らの鉄壁な思考力と磨きぬかれた超能力によって、彼らの仕事があまりにもスピーディーに、そしていとも簡単に具現化していったからだ。これは彼らの努力以上に神のみ業であり、神の恩寵であることを人々はきちんと自覚していた。
元服式はゾーン大神官の指揮のもと、厳かに執り行われた。驚いたことに彼が降ろしたご神託では、神からフォーヴへ時間のオーラが贈られるとのことだった。そしてさらに驚いたことには、フォルティシモとしてファーラには空間のオーラが贈られるとのたいへんありがたいご託宣だったのだ。
王も王妃もたいへん驚き、ギアナン王は神への深い感謝を表した後、フォルティシモにこう告げた。
「フォーヴ・ゴーディファイ、時空のオーラはゴーディファイ王国初代ユーシュレイ王が纏っておられたものだ。それ以降そのオーラを継承したものはいない。本当に名誉なことだ。
そしてファーラ・ヅィー、そなたは空間のオーラを賜った。それはそなたの魂がこの宇宙の続く限り、時間と共に世々限りなく伝えられるということである。
フォーヴよ、ファーラよ。私が視る未来には途方もない困難も多い。けれど、時空のオーラを共に大切に魂に宿し、神の為、この宇宙の為にあらゆる困難に打ち勝つのだ。
よいか。時空は万物の依り代ぞ。すべてはそなたらの生き方しだいなのだ。己を厳しく律して励むように」
そうしてフォーヴはゴーディファイ王国第17代皇太子として正式に認証され、ゴーディファイ王家の紋章であるディアギルグが刻まれたたいそう美しい剣を賜った。
ディアギルグとはメビウスを八角形で表した中に十字架をまつり、その上を二輪の緑の薔薇が交差するというたいへん美しい紋章である。一輪の棘のない薔薇には愛と平和、そして三つの棘を持つもう一輪の薔薇には、力と連帯が表されていた。
そしてこの剣には聖霊が宿り、剣の主の祈りを三度聞き届けることが約束されていた。初代ユーシュレイ王の時代から受け継がれるもので、第5代スィティファ女王の時代に一度だけ剣の力が使われたとの伝承があった。
「私、フォーヴ・ゴーディファイは生命の限り、ディアギルグの剣に課せられた使命を全うすることを誓います」
フォーヴは身の引き締まる思いで剣を見た。そこにはダイヤモンドが輝き、黄金の十字架、そして二輪のエメラルドの薔薇が美しく咲いた世にも稀な美しい姿があった。
そしてファーラは必死に泣くまいと涙を堪えていたが、それはあまり効果がなかった。大粒の涙が頬を伝って流れ、その先には、無色透明な泉が視えていた。
ある日、二人は王宮の庭を散策していた。来週はパシェルの誕生日だ。何を贈ろうかと相談しながら、二人は腕を組み、安息の風に誘われるがまま薔薇園のベンチに腰を下ろした。
「何がいいかな。パシェルは何でも持っているからな」
「恋人よ。パシェルにないものって恋人だけじゃない?」
「だけど、誰がいる?」
「・・・」
二人は考え込んだ。すると二人の背後から静かな、そしてまるで魂の故郷のように優しくあたたかな声が聞こえた。
‘‘ 待つしかあるまい・・・ ’’
二人はふり向いたが、そこには光があるだけで誰の姿もなかった。
光は伝えた。
‘‘ 正しき時は自ずとまた正しき空を開く・・・ ’’
光はそう伝えると、静かに消えた。
「神だ! 神様だ! ファーラ、神がましました!」
「おぉ、フォーヴ! 何ということ! 私はひざまずくことさえできなかったわ」
二人はあまりの衝撃に打ち震え、ベンチにくずおれた。すると大きな安息の風が吹き、庭園に放たれた一羽の孔雀が二人の目の前に現れた。
「・・・マキシム、君は神を見たか?」
フォーヴが孔雀に言葉をかけると、孔雀の王マキシムは黙って微笑んだ。
結婚式が一ヶ月後に迫ったある日の午後、ギアナン王とメディー王妃はフォルティシモを呼んで小さな茶会を催した。まるで『フローラ・ダニカ』から飛び出したかのように可愛らしくセッティングされたテーブルで、四人はお茶やケーキを楽しみ、談笑した。
メディー王妃は感慨深げにこう言った。
「あなた達が生まれたのはつい昨日のことのように思うけれど、月日は流れたのね。素晴らしい結婚になることを祈っているわ」
するとギアナン王は静かにこう言った。
「フォルティシモよ。そなたらが生まれた時、私は直感で名前にFを授けた。けれどいつの間にかフォルティシモと呼ばれるようになり、二人は今、生まれた時以上の絆を結ぼうとしている。
Fが聖なる6を意味することは知っているだろう。けれど、6は完全なる数字ではない。8こそがメビウス、永遠なのだからな。
フォルティシモの意味はここにある。二つのF、つまり12は8と同様完全なる数字。そしてゴーディファイの紋章はディアギルグ、八角薔薇十字だ。
そなたらは完全なる8の中に、フォルティシモとしての12を宿しておる。これは完全の中の完全、聖なる中の聖、未来のゴーディファイの核だ。
二人は同じエレメントを持って生まれた等しい男女であり、二人で一つ。けっして離れてはならん。よいな。けっして離れてはならんぞ」
「はい、父上」
「はい、王様」
王と王妃は互いを見つめて微笑んだ。それはまるでゴーディファイの永遠の安泰を確信したかのような、満ち足りた微笑みだった。
「最近パシェルがとても綺麗な女性といつも一緒なんですって」
「とてもいい雰囲気らしいよ。そのうち紹介してくれるんじゃないか?」
フォルティシモがそんな話をした数日後、二人は王立図書館で噂の二人に出会った。パシェルはいつもの笑顔だったが、今日はとびきり素敵に見える。隣にいる美女のせいだろう。
彼女はファーラですら見たこともないほど上質なシルクジョーゼットのピンクのローブに、胸元にはとてもお洒落な黒のオーガンジーの薔薇のコサージュをつけていた。その姿の美しさはフォルティシモを驚かせ、そしてときめかせた。
「やぁ、パシェル。相変わらず絶好調だな」
「ハイ、パシェル! 元気だった?」
フォルティシモは隣の美しい女性を紹介しろと、パシェルに目配せする。
「とんだ所で出くわしてしまったな。紹介するよ。ファーゴット・ウィンデジー嬢だ。父の仕事の関係で知り合ってね」
「はじめまして、ファーゴット・ウィンデジーです。よろしく」
フォーヴは彼女の瞳をじっと見ながら握手を求めた。ファーゴットはフォーヴに応じ、そしてファーラも彼女と握手をしながら、その麗しさにひと目で惹かれた。
「また今度四人で食事でもしよう。じゃあ!」
パシェルはファーゴットの背にそっと手を添え、優しくエスコートしながら図書館を出ていった。
「とてもお似合いね、フォーヴ」
「・・・」
「どうしたの? 気分でも悪いの?顔色が悪いわ」
「ファーラ、先に帰ってくれないか。僕は調べものがある」
「わかったわ。じゃあ、明日ね」
「ああ、気をつけて」
ファーラが図書館を出ると、何やら生あたたかい風が頬を撫でた。
何の風かしら・・・ この風、感じたことがあるわ・・・
ふとファーラは首を傾げた。けれど、それがいつだったかは思い出せなかった。
翌朝の礼拝後、フォーヴはゾーン大神官と話し込んでいた。
「フォーヴ君、ご心配には及びません」
「ですがウィンデジー家は・・・」
フォーヴは珍しく声を荒らげた。するとゾーン大神官は声をひそめてこう告げた。
「・・・もしかするとイズーの森へ落ち延びた一族の末裔かも知れませんが、まさか裏鬼門を抑えるシーラス家に限ってそのような繋がりはないでしょう。ですが、至急調べさせましょう」
「お願いします。私の取り越し苦労ならいいのだけれど・・・」
数日後、ゾーン大神官はフォーヴにこう告げた。
「フォーヴ様、ウィンデジー家が完全に滅んでいることは間違いございません。その女性について定かにはわかりませんが、お気になさる必要はございませんでしょう」
「そうですか。あまりにオーラの強い女性だったので心配になったのだけれど、杞憂でしたね」
フォーヴは安堵のため息をついて、ゾーン大神官に礼を述べた。
その数日後、パシェルがフォルティシモを自宅に招き、夕食を共にしながら改めてファーゴットを紹介した。ファーゴットはフォルティシモと同い年だった。
四人はすぐに打ち解け、まるで古い付き合いかのように気さくに語りあい、笑いあった。
「ファーゴット、あなたのその指輪素敵。不思議な力を感じるわ」
ファーゴットの右の薬指には大ぶりの美しい指輪が嵌められていた。黒のオニキスを土台に、赤珊瑚で二つのAの文字が複雑にかたどられている。
「これはダブルアルパよ。我が家に代々伝わる紋章なの」
「よく似合ってるわ」
「ありがとう」
ファーゴットが静かに笑った。
ゴーディファイの晩秋は森や山々の木々がとにかく美しい。森の赤らみには木々の意思が感じられる。深みがあり、薫りがよい。そしてそれが幾重にも折り重なるようにして山となり、山脈となってゴーディファイの人々を包んでいた。
結婚式が来週に迫ったある日、ファーラは母エマーニュや侍女たちと共にサンガの森へピクニックに出かけた。サンガの森の清らかさを言葉にすることはなかなか難しいが、例えるならそれはまるで硯を洗うような、そんな理性を感じる清らかさを湛えた森だった。
ファーラの肌にサンガの森の精がアロマを授ける。花嫁の支度は終わった・・・
・・・かに見えた。
するとその時、ものすごい勢いで早馬がやって来て、ヅィー家の従者が倒れ込むようにエマーニュに何かを伝えた。途端にエマーニュはわなわなと震えだし、顔はみるみる青ざめていく。皆は動揺し、不安げに顔を見合わせた。
「とにかく戻りましょう。すべてはそれからよ」
エマーニュは、ファーラをじっと見つめて静かにそう呟いた。
「理由がわからん ! ! もっと詳しく話を聞かせていただきたい」
「ですので、ただご神託としか・・・」
「ご神託ですと? 一体当家が何をしたというのか ! !」
「いや、それは何とも・・・」
王家の侍従がもたらしたその悪い知らせは、ファーラの心をどこまでも打ちのめした。
あろうことか、フォーヴとの結婚が無期限に延期されるというものだったのだ。
ファーラは意識が朦朧となり、その場で気を失ってしまった。
「ファーラ様?」
侍女頭のアルマが静かに扉を開けた。
「・・・。・・・フォーヴ」
ファーラの瞳からはらはらと涙が溢れた。
「大丈夫でございます。アルマが必ずファーラ様をお守りいたしますから」
アルマの優しさがファーラをよけいに悲しくさせる。
「・・・フォーヴに会えるかしら」
もう二度とフォーヴには会えないような絶望が、ファーラの心を幾重にも塞いだ。
その日の夜更け、フォーヴがヅィー家の裏庭を訪れた。銀紙を散らしたような冷たい雨の降る中だった。
「ファーラ ! !」
「おぉ、フォーヴ ! !」
ファーラは泣き崩れ、フォーヴが抱き上げた。
「結婚の無期延期はご神託だそうだ」
「・・・どうして ! !」
「・・・わからない。・・・だが、ご神託は絶対だからね」
二人の心はどこまでも深い沼に落ちたかのようだった。長く重い沈黙だけが、二人の時空に横たわっている。
「・・・大丈夫だ、僕はあきらめないよ。必ず君を迎えに来るから。ファーラ、待っていてほしい。約束だ」
「・・・あぁ、フォーヴ。・・・わかったわ、・・・約束よ」
アルマが時のないことを告げた。もう行かねばならない。
二人は熱い口づけを交わした。まるで神との約束であるかのように、魂にその感触を刻みながら・・・。
その同じ時刻、シズマはギアナン王と面会していた。
王の落胆ぶりにはこちらが動揺する程だ。
「シズマよ、わかってくれ。ご神託だけはどうすることもできんのだ」
「ですが王様、フォルティシモとして空間のオーラまで賜った娘でございます」
「わかっておる。そのフォルティシモに降ろされたご神託なのだ」
ギアナン王は天を仰ぎ、強い視線で一点を見つめた。
「・・・シズマよ、ファーラをひとまずヴルノーの森に預けてみては如何か。彼女なら、ファーラの心を必ずや守ってくれる」
「ヴルノーの森に・・・」
「ほとぼりが冷めるまででよい。神のご意思も変わられるかもしれんしな。それにもしかしたらこれは、フォルティシモにとって恩寵かもしれんぞ。我にはそんな予感がする」
次回に続く・・・
―― 文・構成:安東瑠璃
