緑濃く燃ゆる大地。
この龍の帝国に生きる私たちの心を豊かに彩ってくれる日本文化の数々。
私たちはもっともっとこの国の文化を誇り、愉しむべきでしょう。
あなたはどんな日本文化がお好きですか?
今回のテーマは「神社仏閣」。
さぁ、ひとまず日常の煩わしさは忘れて、共に日本の美と祈りの世界に没入しましょう🌸
第一話 神社仏閣
神社とお寺、それぞれのあり方
日本には、神社とお寺というふたつの「祈りの場」が静かにあり続けています。
日本人の営みとともに千年以上の時を重ね、それぞれの形で、私たちの内なる静けさを見守ってきました。
ではこの二つは如何に違い、如何に交わり、どのように私たちの心に寄り添ってきたのでしょうか。
起源と精神性
神社は、日本古来の自然信仰「神道」に由来します。
山や川、風や木々・・・あらゆるものに神が宿るという世界観が根底にあり、八百万の神々への感謝と敬いが祈りの中心にあります。
一方お寺は外来の仏教に基づき、生死とは何か、悟りとは何かという問いと向き合う場です。
インドに始まり中国を経て伝わった仏教は、やがて日本の風土と重なり合い、独自の美意識を育んできました。
神社は、今ここにある生命への感謝を捧げる場。
お寺は人の生と死、そして無常を見つめる静かな洞察の場なのです。
たとえば伊勢の神宮に足を運べば、祈りとは何かを問うよりもまず、自然と頭を垂れるような敬虔な思いに包まれます。対して京都の清水寺を訪ねれば、その大舞台に立った瞬間、自らが生かされているという説明のつかない不思議な感覚を得る人もいます。
それぞれの場が発するこの気の違いこそ、神道と仏教が育んできた精神の風土なのです。
神社の風、お寺の苔
神社には鳥居があります。あの二本の柱と横木が示すのは、聖域と俗域の境界。
鳥居をくぐると空気がふっと変わったように感じることがありますが、それは自然(かみ)のおられる神聖な空間に、私たちが静かに身を置いた証しでしょう。
あなたが神様の気に心地よくふれたなら、辺りには一瞬にして神気みなぎる風が吹き渡るでしょうし、雨が降るのもよくあることです。龍神様のみ心にふれたのです。
こんな風にして神は、あなたが逢いに来てくれたことを魂で喜ばれ、いとも簡単に姿を見せてくださいます。ですから、神社にお詣りしてご加護をいただけない人など滅多にいないのです。知らぬは本人ばかり也・・・なのです。
お寺には山門があります。長きにわたり風雨に耐えてそびえる風格のある寺門には、これまた時代を超えて生き続ける仁王像が阿吽の形相で立ち、私たちを出迎えてくださることでしょう。
時に苔むした大地から漂う湿った空気が肌を潤し、池の鯉や赤い前掛け姿の可愛らしいお地蔵様。本堂へのお参り前には鐘をつくことが許されているお寺も多くありますし、運がよければ本堂に安置されているご本尊様を間近で拝見することもかなうでしょう。
御朱印をいただき、境内のご神木の太さに驚きながら写真撮影してみたり・・・。
そんな尊き場で出逢うのは、他でもない仏教の宇宙観と構造美であり、そして何よりご神仏様から与えられる深く清い癒しに他なりません。
私たちがなぜ神社に詣り、お寺でお説法を聞くのか・・・。
それは日本人の魂が求めるものだからであり、日本人の手垢にまみれた信仰のかたちだからです。そこに言葉は要らず、知識も要らず、思考すら必要ありません。
ただ自ずと手を合わす、この心だけでよいのではないでしょうか。
神社では鏡が神の象徴とされることが多く、お寺では仏像が心の拠りどころとなります。
どちらも私たちには見えざるものの姿を、そっと映し出してくれるありがたい存在です。
祈りの所作もふた通り
神社では鈴を鳴らし、深く礼をして手を打ち願いを捧げます。
「二礼二拍手一礼」という所作には神への敬いと、自らの身を正す意志が込められています。
お寺では静かに合掌し、心を鎮めて仏に向かいます。
その所作に説明は要りません。
ただ手を合わせるだけで、自らの内に一つの空白が生まれます。
神社の祈りは、宇宙と和するために・・・。
お寺の祈りは、自らの心と和するために・・・。
どちらも祈りは外に向かうのではなく、内なる秩序を呼びもどす行為なのです。
神社での拍手は魂を呼び起こす行為とも言われており、自らの中にある静寂に響く音が、世界とのつながりを知らせてくれる・・・そんな感覚を覚える人も少なくありません。
一方合掌という所作には、自他の境を越える力があります。
ただ掌を合わせるだけで、自身の内に存在するみ仏と出逢い、深層で対話することができる。
その心には安らぎが、魂には力がみなぎることでしょう。
神社とお寺は動と静の違いに見えて、いずれも祈りの形として等しく尊いものだと言えるでしょう。
日常における位置づけ
神社は初詣、七五三、地鎮祭、結婚式など、人生の節目節目に訪れる場所です。
その存在は私たち日本人の暮らしの中に自然に溶け込み、まるで家族のように寄り添ってくれます。
一方でお寺は葬送や法事、そして写経や座禅などを通じて、心の深部と向き合わせてくれる場所。
み仏の前では飾らず、隠さず、ありのままの自分でいればよいと感じさせてくれます。
神社とお寺は表と裏ではなく、光と影、昼と夜のように一つの循環なのかもしれません。
たとえば小さな村に祀られた氏神様が、世代を超え地域の中心として愛されているように、神社は共同体の根っこを支える存在。
一方、古びたお寺の山門をくぐるとき、そこに刻まれた無数の人々の記憶と、静かな鎮魂の空気を感じることがあるでしょう。
神社が生きた祈りの支柱なら、お寺は死者に捧げ、生者に寄り添う智慧を授けてくれる・・・。
どちらも人生という大河の両岸のように、私たちの営みをそっと見守っているのです。
神社仏閣のいま
ご神仏様は、けして遠い存在ではありません。
親戚よりも、隣人よりも、おそらく友人や家族よりも私たちの傍にいて、静かに見守ってくださっています。私たちの背中を押し、心を支え、導いてくださるそのご神仏様の想いを、私たちはもう少し気づかなくてはなりません。
神様仏様は私たちに何を教えようとされているのか、どう生きる事がご神仏様に報いる事なのか・・・。
きつい言い方になりますが、信仰心を持たない生き方は、単なるヒトとしての人生でしかないのです。
神社もお寺もその場の力ではなく、私たちのまなざしが祈りの空間を生む・・・。
そんな風に考えることができれば、私たちは受け身ではなく、もう少し積極的に日本の信仰に関わることができるのかもしれません。
現代社会では、祈るという行為そのものが日常から遠ざかりつつあります。
ですが都会の喧騒の中にも神社は多く見られますし、またどんな田舎に行ってもお寺のない所はありません。日本にはコンビニよりもはるかに多い神社仏閣が存在するのです。
けれど昨今残念なことに、神社仏閣の存続を危ぶむ声が大きくなってきています。
高齢化や人口減少、経済的な問題や後継者の不足などの様々な要因が、その存続に深刻な影を落としているのです。
特に地方では氏子や檀家の減少に歯止めがきかず、社寺を支える経済基盤が弱体化しています。そのため老朽化した社殿や寺院の修繕費が集まらず、すでに廃神社や廃寺となった社寺も多く存在します。
現在日本の経済状況は厳しく、また伝統文化への関心も低下傾向にあって、神社仏閣を取り巻く環境は悪化の一途を辿っています。
けれど私たちには、ご先祖様が守り続けてきた神社仏閣を後世に遺す責務があります。
是非日頃から神社仏閣にお参りし、お賽銭をしてご神仏様に手を合わせ、日々の感謝を捧げましょう。そんな簡単なことが神社やお寺を支える力となるのです。
結びにかえて
神社とお寺の違いを知ることはただの知識ではありません。
それは自分が何に手を合わせ、何に頭を垂れてきたのかを見つめ直す行為なのです。
あなたは人生の中で、どれだけ手を合わせてきましたか?
それが例えたった一度だとしても、その清らかな行いはきっとあなたの中に、見えない柱となって立ち上がっていることでしょう。
心が揺らいだ時にふと神社やお寺を訪れ、静かに手を合わせる・・・。
それだけで、言葉にならない感謝や願いが形をもつことがあります。
また、何気なく立ち寄ったお寺の庭に咲く一輪の花が、沈んだ心にそっと光をくれることもあるでしょう。
祈りとは、誰かに何かを願うだけのものではなく、自分自身を見つめ直して決意し、時には覚悟して、自らの内を強くしなやかにする行為なのだとあらためて感じます。
――文・構成:安東瑠璃